橋本健二さんの「階級社会」と「新・日本の階級社会」を読んだ。最初はオーディオブックで「階級社会」のみを聞く予定だったが、聞いているうちにいろいろと思うところがあって、最終的に2冊とも図書館で借りて読んだ。その結果適当に書こうと思っていたこのエントリーも厚みのあるものになってしまった。
面白くなかった点
人が時間と労力かけて作ったものを悪く言うのは申し訳ないという気持ちはあるのだが、この本は「社会学に基づいた本」として読まれるだろうし学問には批判は付き物ということで許してほしい。
前提の確実性を吟味せずに演繹を繰り返している
タイトルから推測できるかもしれないが、この本はマルクス主義を系譜とする考え方を主軸に物事を語っている。マルクス主義の思想については特に言うことは無いのだが、「マルクス主義に基づいた社会分析」系の論説でよく見かける論証の過程がどうしても受け入れられない。(ここで言っている「マルクス主義の思想」に唯物弁証法は含まれないのか?という質問への答えは「おそらく含んでいません」となる)。これはこの本ではじめて感じたことではなく、大学の頃からずっと抱いている感覚である。僕が大学で所属していた研究室はマルクス経済学の息がかかった研究室で、ゼミでは使用価値・交換価値などの単語が当たり前のように出てきていたし、2つ隣の研究室は資本論を輪読するような研究室で、そこの教授の授業を受けることもあって、先程の感覚を持つことは頻繁にあった。けど僕は小心者なので面と向かって言うことはなかったし、だから今もネットにコソコソと書いているわけである。残念ながらこの本はその不満を吐露するためのスケープゴートになってしまった。
わりと典型的な例を見てみる。「新・日本の階級社会」にて、「どの階級に所属するかによって、当然ながら仕事の性質、仕事のあり方は大きくかわる」ことについて下のように書かれていた。
ブレイヴァマンによると、もともと人間の労働は、労働それ自体、すなわち「実行」と、実行に先立ち、これを導く「構想」とから成り立っている。本能にしたがって行動する動物の場合には、構想と実行の区別はなく、両者は渾然一体となっている(チンパンジーなど高度な知能をもつ類人猿の場合には区別があるのかもしれないが、ここではひとまず描く)。しかし、構想と実行は分離可能である。彼の言葉によると、「いぜんとして構想は、実行に先立ち、実行を規制しなくてはならないが、しかし、ある者が構想した観念を他の者が実行に移すということは可能」だからである(ブレイヴァマン『労働と独占資本』)。こうして、一部の人たちだけが計画や決定、設計など構想に関わる労働を行い、さらにこの構想にもとづいて、他の多くの労働者を指揮監督し、実行に関わる労働に従事させるという構造が成立するのである。
それぞれの階級は、構想と実行という二種類の労働に対して、異なる位置にある。自分で生産手段を所有し、これを自分の労働によって活用する旧中間階級は、構想と実行の両方を担っている。これに対して資本家階級は、企業規模によって違いはあるとしても、ほぼ構想に関わる労働のみ、とくに事業のこまごました部分に関する構想ではなく、経営全体を見渡すような高レベルの構想に関わる労働を担っている。そして新中間階級は資本家階級の指揮の下、中間的なレベルの構想に関わる労働を担い、労働者階級は新中間階級の指揮の下、実行に関わる労働を担う。ブレイヴァマンの言葉を用いれば、階級によって「労働過程」が異なるのである。
(「新・日本の階級社会」p95-96 より)
それっぽいことを書いているが何を言っているのかよくわからない。「もともと人間の労働は、労働それ自体、すなわち『実行』と、実行に先立ち、これを導く『構想』とから成り立っている」という前提から各階級が従事する仕事の特色を導いている(階級による分類についての問題は後述する)が、ブレイヴァマンが提唱する「構想と実行」の考え方がどれほど現象を確実に説明できているかについては検証は行われていない。そもそも定義が曖昧すぎるので科学的な検証はできないと思う。
類型化に過度に依存している
社会学において類型化が研究手法/研究目的として認められていることは知っているが、どう類型化するかは研究者や分野での慣習に依拠することが多くて、それって恣意的な操作が可能じゃんっていつも思う。「新・日本の階級社会」でも「階級」を以下のように分けられるとしている。
資本家階級 従業先規模が五人以上の経営者・役員・自営業者・家族従業者
新中間階級 専門・管理・事務に従事する被雇用者(女性と非正規の事務を除外)
労働者階級 専門・管理・事務以外に従事する 被雇用者(女性と非正規の事務を含める)
旧中間階級 従業先規模が五人未満の経営者・ 役員・自営業者・家族従業者
(「新・日本の階級社会」p66 より)
これに非正規雇用の「アンダークラス」を加えて人を5つの階級に分けている。アンダークラスについてはこのような注を加えている。
正規労働者とアンダークラスは、本来は別々の階級というより、労働者階級の内部の異なる二つのグループである。しかし両者の異質性はあまりに大きく、もはやアンダークラスは階級に準ずる存在になっているといっていい。このため以下では、原則としてアンダークラスをひとつの階級として扱い、日本の階級構造を五階級構造としてとらえることにしたい。
(「新・日本の階級社会」p78 より)
さすがに恣意的で無いとは言えないだろう。
僕がこの手の話をするときに人格心理学で性格類型論から性格特性論にシフトしていってることをよく引き合いに出す。僕は専門家じゃないので各自でちゃんと調べてほしいのだが、僕が知っている限りでは人格心理学ではEFAを使って5つのスケールに絞ったFive Factor Modelと呼ばれるモデルが主流で、MBTIなどのタイプ分けはもはや廃れている。その理由は人格という複雑な現象をタイプ分けでは十分に捉えきれないから、というものである。(リンク1、リンク2)
分類するならばEFAやクラスター分析のような機械的な方法を織り交ぜていってほしい。「新・日本の階級社会」の題7章でクラスター分析も行ってはいるもののその解説は4ページ(p299-302)しかない。
データ分析が怪しい
データの分析も行っているがあまり質の高いものではなかった。例えばこの部分。
データを分析した結果からは、多くの人々は、対立する二つの立場に分かれている。一方には、格差拡大の事実を認め、格差を縮小することが必要だと考え、同時に軍備の拡大に反対し、民族的な排外主義に反対する人々がいる。他方には、格差拡大の事実を素直には認めず、格差縮小のための政策に反対し、同時に軍備の拡大を支持し、民族的な排外主義に寛容な人々がいる。
(「新・日本の階級社会」p206 より)
上記の引用で言う「データの分析」とは、類型化した階級それぞれに関する集計値を見比べること(新中間階級のうち〇〇と回答した人が何パーセントであった、など)を指しており、統計学的な計量分析は行っていない。後に計量分析を行っている部分も出てくるので引用してみる。
ところが、相関係数の値、そして正負の符号は、階級によって異なる。とくに排外主義では、これがはっきりしている。所得再分配と排外主義の相関係数は、資本家階級と新中間階級で、それぞれマイナス〇・二〇〇、マイナス〇・一七六という大きな負の値となっており、その絶対値は全体でみたときの相関係数(マイナス〇・〇六七)を大きく上回っている。このことは、所得再分配を支持する人ほど排外主義ではないという傾向が、資本家階級と新中間階級でとくに強いということを意味している。この二つの階級の人々にとっては、所得再分配を支持することと排外主義とは、相容れないものなのである。ところが正規労働者、パート主婦、旧中間階級では、相関係数の値が小さく、両者の間に関連が認められない。そしてアンダークラスでは、所得再分配と排外主義との相関係数は〇・二四八というかなり大きい正の値である。これはアンダークラスでは、所得再分配を支持する人ほど排外主義的な傾向が強いということを意味する。
(「新・日本の階級社会」p238 より)
相関係数は、データが線形の関係にあるかどうかを示す数値であって、そこから2つの変数の相互の影響については何も判断することはできない。(The Datasaurus Dozen はそれを視覚的に確認できるのでおすすめ)。作者は、相関係数と回帰係数を混同しているように思える。もしそうだとしたらあまりにも初歩的な誤りだ。しかも計量分析では数値の解釈については非常に慎重に行った上で、因果関係の判断はさらに神経を尖らせて検討を重ねる必要があるのだが、作者は単純な数字の比較だけで因果関係まではっきりと断言している。
「新・日本の階級社会」の p254 では、所得再分配政策支持の度合いを被説明変数、類型化したグループを説明変数として重回帰分析をしているのだが、なぜわざわざ類型化によって粒度が下がってしまっているデータで重回帰分析をしたのかがわからない。年齢や年収を説明変数として用いるほうがよっぽど良いはずなのに。
僕も統計学をそこまで理解している部類ではないが、作者がちゃんと手法を理解して使っているのか疑ってしまう。データ分析はベストプラクティスに沿って慎重行わないとせっかくのデータと結果が意味のない数字に、使い方によっては安易なプロパガンダに成り下がってしまう。
何かと政党の政権争いにつなげる
とりわけ自民党はどうのというところが強調されていた。僕は政策には興味はあるが政党には本当に興味ないのでそうですか、という感じだった。スポーツ観戦とかもそうだけど集団を応援する感覚がよくわからない。
面白かった点
「階級社会」の第三章は、「戦後青春映画と梶原一騎作品から見る階級闘争」というタイトルで雑誌に掲載されそうな考察記事みたいな内容で面白かった。
「新・日本の階級社会」の第七章 4「自己責任論の罠」では諮問機関の答申を引用しながら「自己責任論」のルーツについて書いていて面白かった。
「新・日本の階級社会」の第七章 5「格差をいかにして縮小するか」では、いろんなところで提案されている制度が簡潔に紹介されていて良かった。
その他感想
僕は作者と問題意識や道徳的な立場は近いと思うのだが、それでも距離を感じてしまう。一緒にバンドを組んだとしてもいずれは解散してしまうと思う。
「階級社会」と「新・日本の階級社会」を比較すると、「新・日本の階級社会」では計量分析が増えていた。社会科学の方向性としては今後も計量分析が重要視されていくんだろうなという気がする。
「階級社会」では大学で習った農民層分解、労働からの疎外、階級闘争、搾取といった単語とその解説が出てくるのでマルクス主義の概要を知るには良い教材かもしれない。
作者は打倒自民党みたいなことを言っていたが、「新・日本の階級社会」の最後に提案していた制度を自民党が公約に掲げたらどこに投票するんだろうか思った。「〇〇党だから」という理由とも呼べない理由だけで特定の政党を支持する人がいるのは代議制の間接民主義の弊害であると僕は思っていて、直接民主主義が実現したらいいのになあと思う。技術的にはすでに実現可能ではあると思う。「今月の政策」みたいなチラシが毎月発行されて記号式投票する社会を妄想するのが楽しい。
Audible で無料だから適当に聞いてみるか、と思ってたけどわりとちゃんと聞いて本もちゃんと読み込んでしまった。
気になった用語
- SSM調査
- JGSS調査