NHK の特集記事で紹介されていたのを見て、その後友人に勧められて読んだ。
著者自身が日本で女性として生きてきた経験をもとに、女性が社会から期待されること、とりわけ出産と育児にフォーカスして、それに対する違和感や不自由さについて語っている。
子供を産むことの倫理性についても書かれていて面白かった。これまで見てきた人口倫理や反出生主義についての文章は「分析哲学で感情を排除して冷静に考えました」みたいなものが多かったが、この本では著者の主観と感情を織り交ぜたナマの思考が書かれていて良かった。
ちなみに出産と育児に関して著者のスタンスとしては、今は子供を産みたくないし今後も産む決断はしないと思うけど、産んだほうが良いのかなという気持ちを持つ瞬間もあるし、将来的に考えが変わることもあるのだろうか...、という感じで最後まで悩みまくっていた。
「なんとかなるほうに賭ける」ことについて
聞けば、「さまざまなネガティブ要素よりも、自分の子供に会いたい、母になりたい気持ちが勝った」 結果であり、要は「なんとかなるほうに賭けた」 ということだ。さまざまな産まない理由を並べてみて、「やっぱり産むのはやめよう」となる私と、 「そうは言っても子供を産みたい」となる人の違いは、一体どこにあるのだろう。リスクよりも自分の気持ちを優先して動き、新しい人間をこの世界に生み出すという行為は、なんと輝かしいエゴだろう。 「自分の子供に会いたい」という気持ちの、引力の強さに圧倒されて、眩しい。
(Kindle 版 1471/2186)
世の中はなんとかなった人たちによって過半数が構成されている気がする。なので「なんとかなるだろう」と考えて出産、育児をした人のうち大半が実際になんとかなっているのだと思うし、なんとかなった人は周りに「なんとかなるから大丈夫」と自身をサンプル(n=1)として語るという構造になっていそう。
仮に確率として 8 割の人が出産と育児が「なんとかなる」人たちで、2 割が「なんとかならない」としても、正常性バイアスの力も借りて出産と育児を考える人の大半は自分も「なんとかなるだろう」と考えて「なんとかならない可能性」を過小評価してしまう(あるいはそもそも考慮しない)のではないかと思う。結果として生じた「なんとかならなかった」人たちは社会から批判されて、「なんとかならなかった」ことを語ることは火に油を注ぐことになるので、そうした人たちの声は埋もれていってしまうように思う。けどそういう人たちはきっと存在する。
でも、本当は深く考えずに産んじゃっても普通に幸せに暮らせる世界のほうが正しいのに、深く考えずに産んじゃうことに「無責任」のレッテルが貼られるのは、一体どういうことだろう。
(Kindle 版 1514/2186)
糾弾する側の気持ちもわからなくもないが、世の中は真剣にリスクを評価してから行動に移すような暇な人間ばかりではないし、リスクをとって行動する人たちによって社会が発展する側面もあるので、確率として「なんとかならない」人たちがどうしても生じるのなら、そういった人たちを糾弾して一人で気持ちよくなってないで、適切なケアを提供できるように社会保障を整えていきましょうよという気持ちになる。1
ところでこうした理屈を抜きにしても子供が欲しいという欲求に共感ができないのだが、一方でじゃあ君はなんで Glitch Hop がそんなに好きなのかと聞かれても説明できないし、そういう「理由はわからないけどなんか脳の報酬系を刺激するものの一種」として捉えるようにしている。
社会の風潮
「誰かのために自分を捧げて生きる」という行為は、女であれば進んでやりたがるものだ、といまだに思われているのが不思議だ。
(Kindle 版 870/2186)
女は体のダメージについて騒いではいけなくて、我慢して何事もなかったかのように振る舞わなくてはならず、それでいて常に小綺麗にしていることを求められている。
(Kindle 版 981/2186)
「子供を産まずに好きなことばかりして暮らして、 子なしは社会にフリーライドしている」という言葉を SNS でしばしば見かける。
(Kindle 版 1933/2186)
上記の他にも多数、社会からの圧力や悪口についての不満が書かれていた。こういうことを言うのは一部のネットの変な人たちかと思っていたが、もしかして世の中の女性は皆これほどの外圧を受けているのだろうか。
ここは読んでいて僕が見えている世界との差があったところで、知っておかないとなと思った。
あと自分こそ世の中を知らないまま考えが先鋭化していっていないか少し怖くなった。
先日大学のころの友人二人と会ったときに二人とも「最近 SNS の雰囲気が悪い」と溢していて、個人的にはそのようなことを感じていなかったので Twitter/X のおすすめタイムラインを見せてもらったのだが、かなりひどいことになっていた。
現状僕は物理空間でもデジタル空間でも極力他人と関わらず、SNS はヘイトを拡散しない、僕と興味関心が一致する人のみで形成された治安の良いフィルターバブルの中で生きることできていて、外部世界(社会や他人)から受けるストレスをわりと回避できている気がする。世間知らずであることには利点もあるとは思っている。
選択肢
本を読んでいてこの記事を思い出した
あらゆる事柄において、選択肢が存在することは良いことだが、選択肢が存在する限り悩み続けてしまうという副作用をもたらすので、早めに決断をして不可逆的な状態に移行してすっきりしたいと個人的には思う。生殖機能はオプトアウト型だが、子供がいない人が今の日本で能動的に(かつ安全に)子孫を作れない状態になるという選択肢は男女ともに無いに等しい(母体保護法第 2 章第 3 条)。
仮に選択肢がある状況下でもここまで潔く決断できる人は少ないのではと思う。
その他
William MacAskill が What We Owe the Future で言っていたことの真逆のことを言っていた。
しかし、それはあくまで私がいろんな面で幸運だったからだ。だいたいにおいて健康だし、めちゃくちゃ金持ちなわけではないが貧困ではないし、気の合う夫や友達もいる。幸運だったからこのクソみたいな世界でなんとかなっているけれど、このクソみたいな世界に新メンバーを勧誘したいか? と言ったら素直に「したい」とは言えないのだ。たぶんかなり大事な存在になるであろう自分の子供ならなおさらだ。
(Kindle 版 361/2186)
- サブプライムローンとか区分所有型ホテルとか、あえて複雑にして市民のリスク判定を鈍らせる手法もあってそういうのは法律による規制なりで人々を誘導することが必要に思う。出生の倫理性や関係する社会制度も複雑だけど生物としての本質に近すぎるのでそういうのは適さないだろう。↩