僕の生活は「苦痛を回避する」という Negative utilitarianism 的な思考を中心とする、「不安」という従円と「行為の(自分にとっての)意義」という周転円で概ね描くことができる。
生活における不安を構成する要素はたくさんあるが、収入の有無は間違いなく比重が大きい。学生だった頃は何に時間を使うかが自由だったため、自分にとって意義があると思える行為に時間を使うことができた。社会性が無いうえ要領が悪いのでアルバイトへの拒絶反応が起き、金銭的にはそこまで自由ではなかったが親のすねをかじる&奨学金という名の借金をすることで普通に食事ができていたし家賃も払えていたので不便のない暮らしができていた。ただいずれは自分で働いて暮らす必要があり、自分にそんなことができるのだろうかという不安は常にあった。アルバイトも全くしていなかったわけではないが、働くという行為に「収入を得る」以上の意義を見出すことができなかった。(アルバイトの種類にもよると思うが、当時の僕ができるアルバイトはその程度のものしかなかった。)卒業して働き始めたらその仕事に意義を見出すことができるのだろうかということはいつも考えていた。
2021 年から社会人としていざ働き始めると、数年は路頭に迷うことは無いという安心感はあったものの、やっていることが自分にとってどんな意義があるのかがやはり見出せず虚無感が膨れ上がった。やりたくないタスクをこなすために週 40 時間拘束され、何かが身になっている感覚もなく、それを続けることに将来性があるとは思えなかった。将来への不安と虚無感に耐えられず 1 年足らずで辞めてしまった。(運良く転職という形での退職だったが。)
そして今年から今の会社で働き始めた。週 40 時間は仕事に充てていることには変わりないが、やっていることに意義を感じることができている。手に入れたかった知識を学ばせてもらいながら同時にそのアウトプットを通じて微力ながら会社に貢献できている実感がある。その知識を趣味でも存分に使わせてもらっている。仕事が楽しいと思えている。本当にありがたい。
仕事が楽しいと思えているのは会社のおかげももちろんあるが、自分が社会的に需要があることを楽しいと思えているのもある。そいう特性でよかったなあと思う。ゲームをやるのも YouTube を観るのも楽しいけど、しがない一般人の消費行動に需要はない。生存としょうもない娯楽のために僕は毎日 8 時間を費やすことができただろうか。子供が欲しいとか、高級車が欲しいとか、別荘が欲しいとかそういった大きな願望を持っている人は強いと思う。僕にはそれがなかった。
もっと上手くコードが書けるようになりたいし、得たい知識や読みたい本もたくさんあるけど「不安」と「意義」については十分に満たされた毎日を送ることができている。生活についてはこれ以上望むものがない。
僕は安寧を知った。2022 年はそんな年だった。